
表現の自由に対する制約立法が裁判所で合憲性を審査される場合に、それが経済的自由権に対するよりもより厳格な審査基準でなされるべきだという理由の2つ目は、立法・行政府と裁判所の判断能力の問題だとされています。
裁判所が厳格な審査基準で臨むということは、それだけ立法府の裁量権が狭まり、裁判所の裁量権が大きくなることでもあります。
つまり、経済的自由権や生存権の問題では社会での経済活動や国の財政問題など多種多様にわたる要素をいろいろ総合判断しなければいけないので、国政調査権がある国会や巨大な公務員組織を抱える行政府のほうが裁判所より判断能力が高い、と考えられているのです。
裁判所は基本的に原告と被告が提出する主張と証拠からしか判決を書いてはいけないことになっています(民事訴訟法の弁論主義)から、おのずと判断材料には限りがありますし、マンパワーも国会や内閣にはかなわないのです。
しかし、表現の自由の制約に関してはそれが妥当かどうかは社会・経済政策などは関係ありません。
たとえば、住宅地での街頭演説について時間や音量を規制する騒音条例も表現の自由に対する規制立法ではあります。
しかしそこで問題となるのは個人の人権としての住居権や住居の平穏が害されるのではないかという問題で、これは夜何時まで何フォンの音なら人間は普通に暮らせるか、耐えられるかなどという単純な問題でしかありません。
だから裁判所にも容易に判断できます。
表現の自由の制約がなされるのは基本的に犯罪の教唆が許されないとか、名誉権侵害やプライバシー権侵害は許されないなど、直接他者の人権との調整が求められる場面なので、そこに政策判断などは必要なく、人数も資源も限られている裁判所でも判断できるのです。
これに対して、経済的自由権、たとえば商業選択の自由に対する制約では、たとえば裁判官・検察官・弁護士になるための司法試験の存在も一種の職業選択の自由に対する制約ですが、どういう制度で(ロースクールと予備試験の併用)何人くらい合格させるかは、社会においてどのような人材が法曹として求められ、どの程度の規模で法律家がいないといけないか、などなど社会・経済全体を見渡して政策判断をしていかないといけません。
だから、判断材料となる素材が原告被告が提出した証拠しかない裁判所では判断能力に限界があり、国会や内閣の裁量権を大きく認めるほうが人権保障のためにも妥当で、それらの民主的機関が判断した制約について裁判所は緩やかな審査基準をとるしかないのです。
つまり、立法府や行政府などの民主的機関による表現の自由の制約について裁判所が厳格な審査基準で臨むのは、
1 必要性(前回の民主政過程論により立法・行政では違憲状態を是正できないのでどうしても裁判所が頑張らないといけない緊急性・必要性がある)
2 許容性がある(裁判所も判断能力に欠けることがなく判断していい分野である)
ことが大きな理由となっているのです。