混沌の時代の自由討論会

混沌の時代における政治や社会などの議題に関する自由討論会です。参加者募集中の共用ブログ。

公権力の濫用は「表現の自由」であり得るか?

 本日はお忙しい中、私の拙文をお読み頂きまして誠にありがとうございます。現在愛知県に居住しているレバ子と申します。前回の更新記事に対し、様々なご意見あり、大変参考になりました。前回は、創作表現に関して児童を模倣する場合は児童の人権は最大限尊重され、そうした作家側の創作活動も内容はともかく頒布や場所に関して言えば配慮があってもいい。そしてある代議士の発言がどういうものかは、未だ詳細は分かりませんが私はあの発言は言語道断であり、その処分はともかく音声データがあるなら公開し、釈明すべき部分があるとしたら真摯に答える必要があると申しました。繰り返しになりますが、この更新記事に関してご意見ありがとうございます。かつて労働組合の勉強会は多岐に渡り、労働法や賃金体系の基礎知識を学ぶ以外にも、人権に関すること自由に関すること民主主義に関すること、またそれ以外の社会が克服すべき課題などを少なくとも20年前までは、よく行われましたが最近ではそうした活動はめっきりと無くなり、NISAの事なり腰痛対策講座などそうしたものが増えました。もちろんこれらの事も自分のお金のこと、また業務を行うために健康を維持する事を学ぶ事も勉強の一つですが、議論の賛否が多くなりそうな話題ほど避けられがちなのもまた最近の労組教宣活動が変容してしまっていると感じます。

 皆様、「サリーとアンの問題」というものはご存知でしょうか?これは自閉症児の思考について理解しやすい簡単なテストです。それでははじめていきたいです。

「前提」1つの部屋にサリーとアンがいます。部屋には「サリーの青い箱」と「アンの赤い箱」が置いてあります。

「ステップ1」サリーはお気に入りのビー玉を「サリーの青い箱」の中に仕舞いました。

「ステップ2」サリーは部屋から出ていきました。

「ステップ3」アンは、「サリーの青い箱」からビー玉を取り出し、「アンの赤い箱」の中に仕舞いました。

「ステップ4」アンは部屋から出ていきました。

「ステップ5」サリーが部屋に戻ってきました。お気に入りのビー玉で遊ぼうとしています。さて、サリーはどこを探すでしょうか?

 

 サリーはステップ3とステップ4のアンの行動をを見ていないのだから、自分がビー玉をしまった「青い箱」を探すのが正解ですが、ここで重要な事柄はサリーの気持ちになります。ビー玉自体は赤い箱に入っているのだから、解答者が「赤い箱」を探すと一種の思い込みをしてしまう事はあるかもしれません。発達障害児はこうした客観的事実の方が印象強く残ってしまい、こうした問題を解いていくには一つ一つのステップでサリーとアンの気持ちを確認していき解答に導くという事が必要です。

 さて私はこのテストを発達障害児のテストと申しましたが、私達もそもそも思い込みによる勘違いが全くないかと言えば、嘘になるでしょう。例えば先日起こった大物タレントとテレビ局アナウンサーの性加害の問題。きっとタレントは大物である自分が言うのだから局アナが断るはずがないと思い込んだはずです。客観的に見れば、どちらとも成人とは言え親子とも思わせる年齢差において恋愛感情が起こるのは全くゼロではないにせよ、やはり普通に時間がかかるものでしょう。たとえ相手がかつてトップアイドルと言われた人としてもです。ただこの手の出来事について特に被害者自身もなかなか事実に辿り着けないものなので、意見はこれ以上述べるのは差し控えます。

 私は名古屋市民ではありませんが、昨年まで名古屋市長のニュースは嫌でもテレビ、ラジオをつければ次々と入ってきていい加減辟易したのが2009年から始まった河村たかし市政です。彼の起こしたトラブルに近い市政の不作為と公権力の濫用は一回二回では済まないです。彼は前言を翻し、代議士に戻りかえってこの辺りのニュースで彼を報道する事は無くなってしまい、SNSで様々な憶測が飛ぶ状況になっていますが、今回はそれが本題ではないので割愛します。

 全国ニュースになりかけていた「あいちトリエンナーレ2019」において、「旧日本軍の慰安婦を象徴した少女の像」がありました。あの一件は、そもそも河村自身が実行委員会会長代行であり、展示されるものを確認も把握もせず、単純に市役所の職員の回してきた決済書類にサインしただけなのか?という批判は彼のパフォーマンスによってかき消されました。「表現の自由は相手を傷つけない事が絶対条件である」という発言が連日報道されて、在名マスコミも河村にやや味方に立つ姿勢が目立ちました。本格的に彼が在名マスコミに見放されて、むしろ代議士になるように追い込まれたのは金メダルを齧る一件があったからです。

 「慰安婦像」は非実在人物であり、とは言え児童ポルノとは言えないでしょう。もっともあの像は椅子に座り、これから起こる苦難を静かに待ち受けるようにも私は見えました。歴史上、本当に起きてしまった事はそれが悲劇であれ、惨劇であったとしても人々はショッキングな感情を受けるでしょう。私は学生時代、広島市にある原爆資料館を見学し、「被爆人形」の姿を見て大変ショッキングな思いをしました。時に歴史的事実である出来事を「表現の自由」において創作する事は見るものに何か心を動かせるように、創作者の想いが込められていると存じます。これは運営先が税金であろうと、私企業の援助金であろうとそれを描写するのなら避けては通れない事です。

 昨今のヘイトスピーチ、20年ほど前には「石に泳ぐ魚」の裁判がありました。表現の自由は最大限尊重されるべきではありますが、まず前提として公共の福祉に反していけないという前提のもと必要であれば、制限があるという事は私の意見として申し上げておきます。ヘイトスピーチに関して言えば、自分の家で自分の仲間に対して幾らでも叫べば、そうした人達の人間性は疑うとは思いますがこれを法的に罰するのは、ほぼ不可能でしょう。それでは彼らが外に出て、自宅にいるかのように人種差別の発言を浴びせれば、当然憎悪を煽った人にはそれ相応の社会的な制裁があって然るべきです。ただどうしてもこうした事柄は線引きが曖昧になってしまい、言いたい放題なのが現状ですが。

 そして前述した「表現の自由は誰も傷つけない事が絶対条件である」という発言は一見もっともそうに見えて見当違い、自分の正当性を守るために発言した詭弁に近いと考えます。果たして「誰も傷つけない表現」というものは例えば何を指すでしょうか?河村のこうした態度で一つの作品が撤去されるかもしれない以上、河村の表現は創作者を傷つけているとは言えないでしょうか?前述した「サリーとアンの問題」のように相手の気持ちを考えてみるという事が河村だけではなく、多くの人ができていないのではないでしょうか?当然それは自分自身、自覚せねばならない事でもあります。組合内議論では、私はかなりキツイ表現をする事もあり言い過ぎたと思う事もしばしばです。自省いたします。

 河村たかしという人物は、人の気持ちがどこにあるか全く理解しないし、しようとする努力もしません。こうした彼の体質が「名古屋 鳥久騒動」というものを10年前に起こしてしまい、「税金でやる事ですから」「市民の思いですから」という言葉のもと土地の所有者の自由を踏み躙ったのですから、彼の言う表現の自由は自分の立場しか守らないものであり、彼がどのように自由を語っても言っている事とやっている事は全く違うと存じます。

 前回の発信では非常に分かりにくい表現もあり、今回もまた拙文も多いです。表現の自由は最大限尊重すべきもので、ただ時と場合と内容によっては一定の制限があっても良く、また公権力は表現の自由に介入する際は必ず相手の意思疎通を十分確認すべきであると最後に文章を締めさせて頂きます。

 皆様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。